〇 旧三国街道と「牧野侯通り」とは
摂田屋の旧三国街道のストーリー、春日の私論
詳細は摂田屋の道 に掲げましたが、概略は以下の通りです。
参勤交代の牧野の殿様は、ここ摂田屋の旧三国街道では、天領である
ことに慮って、下馬して通行した、というのが、ガイドの定説のようです。
しかし本当かなと、疑問をもっていました。 天領というのは誤りで、蔵王神社、
亦は別当寺の安禅寺の寺社領という説明が正しいのですが、それはそれとして、
そもそも藩主なのですから、領内を出歩くところにそんな場所があったら、別
の迂回するルートを作るよう命じるのが自然ではないかと思ったのです。
そんななか、宮内商店街に開設当時に配付された秋山ポスター美術館のリーフレット
の中に、旧三国街道とは別に、溝橋から定明の間に「牧野侯通り」という道が示されて
いるのを見つけ、別資料にまとめました。尚、この図では、旧三国街道と交差後、
さらに村松方面に向かう延長路の部分も、「牧野侯通り」と呼んでいます。
そして最近、昭和十二年発行の「上組史料雑考」 のなかの、上組村交
通系の図や説明文を見ているときに、「牧野侯通り」、「参勤交代道路」という
文字を見つけ、「牧野侯通り」の実在に、確信をもちました。その図を、本文書の
上組史料雑考 に示しました。しかし三国街道の代表的資料と思われる新潟
県歴史の道調査報告書 (1995) の中の、三国街道・摂田屋の図 には、この「牧野侯通り」は示されていません。何故でしょう。
このような"摂田屋村を迂回する"殿様の道の存在があからさまに伝えられ
なかったのには理由があるはずで、もしかしたら殿様行列だけでなく、藩行政の
ための人的往来や物資輸送以外には使用されず、住民には無縁の通行路であった
からではないか、と私は思っています。 すなわち藩専用のバイパス街道です。
それに対して、"摂田屋村を通る"三国街道は、長岡藩領と蔵王神社、或いは
別当寺の安禅寺の寺社領がモザイク状に混ざりあう「相給地」の中を通ります。
だからこそ、どちらの関係の人だろうと、一般の旅人も含め、皆が安心して主要
道路として日常、使っていたのでは、ないでしょうか。
即ち「牧野侯通り」は、地図などに示す必要のない、長岡藩以外は日常は使用
しない「藩の私有バイパス道」だったのではないか、というのが、私のストーリーです。
この「牧野侯通り」は、長岡藩の南部と村松(円融寺、九代忠精公の憩いの場として
知られる洞照寺など)のみならず、悠久山(三貫山の蒼紫神社)、栖吉の普済寺、
蔵王の蔵王神社など、歴代藩主ご一家がよく参拝訪問した寺社にも、専用の道、又は特定の管理道路
(専用国道のようなもの)があっておかしくないと思っています。
加えて、この牧野候通りは、藩の財政の根幹の米作を支える福島江、そして東大新江の監視の
役割もあったでしょうし、大峰山の峰伝いの交通路、長者が原の横断連路、青木から
長倉、栖吉への道を含む、江戸以前の古い道をつなぐ役割もあったのでは、とも思ったりします。
でも、「徳川将軍家に慮って下馬して通行」という話も、将軍家を敬う譜代のなか
でも名門の 殿様の奥ゆかしさを示すハナシとして、ゲストには好評かも知れません。
実際、ときには、この三国街道を、殿様も下馬で通ったこともあったのかも知れませんし、
非公開で特定使用なのですから、ガイドの説明としては、どちらでもいいのでは、と
思っています。
いずれにせよ、「牧野侯通り」の実在は、間違いないところです。
尚、「牧野侯通り」が、明治以降、なぜ錆びれてしまったかについては、必要性が
なくなった、ということなのでしょうが、その時期などについては、全く想像がつきません。
以下、大胆な想像です。溝橋の宮内八丁目から宮内本町を通って、高彦根神社
方面の随所に、昔からの道の跡ではないか、と思われる露地が点在しています。これを結んだ
経路が、「藩の私有バイパス道」ではなかったか、と思っています。
そして明治維新以降、藩の管理下から
民間に移り、畠や住宅となって消え、空襲の戦禍で更に消滅していったのでは、と想像を膨らませています。