全国に約600体残る木像のうち262体が新潟県に現存し、
二番目に多い静岡県の55体を大きく超えている。とりわけ、
長岡周辺の小栗山木喰観音堂の33体の観音像木喰、
白鳥町・宝生寺の33体の観音像、上前島・金毘経堂の
34体の観音像、この三つの堂をあわせて百観音は、
西国・坂東・秩父の観音霊場の再現を意図したとしか思えません。

その木喰上人の造仏を支えた、青柳興清ほか上前島の人々。
作業場を提供したり、小栗山、白鳥を含め、木材を調達・運搬
したりと、木喰上人の三年に及ぶ上前島逗留生活を支えた。
青柳興清は上人晩年の四年、上人の京での造仏も同行支援。
一部の作には、「加勢 大工興清六十才」などと墨書き。
四年後に上前島に戻るまで、上人の身の回りの世話に
留まらず、木仏の材料の段取りなどをこなし、「共同制作者」
の域に達していたものと思われる。
 (前川のあゆみ  同編集委員会2015より)

~ 木喰が60を超える晩年期の作品は、口元に微笑みを浮かべ
優しい表情の「微笑仏」とも言われ、拝観すると自然と心が和み
温かな雰囲気に包まれます。越後逗留時期は、まさに「微笑仏」。
そのような土地が摂田屋の近くにあり、そんな人と支援者達がいた。
美術史・宗教史的にも重要であり、注目していただきたいのです。

~ ここに何故、一番多いのか。そして、一番、ツルツルなのか。
私見ですが、あこがれの弾誓上人の悟りの地である佐渡に行けず、
では近い越後でということで逗留。そして住んでみて、その自然の
厳しさに触れ、巡礼に行く暇もない民に、西国・坂東・秩父の観音
霊場の再現を意図した。そして、三年の長い逗留で、すっかり仲良
しになった子供たちに、仏像と遊ぶにまかせた。
なにしろ、ツルツルなのは、全国で、ここ上前島だけなのです。 
村人の前で、木喰さんの「いいよ、いいよ」の許しがなければ、
こんな毎年の遊びが実現したとは思えないのです。

下左図は長岡市上前島 金毘羅権現堂の自身像と秩父三十四観音(1804)。
下右図は新潟県大潟 円蔵寺の毘沙門天(1806)。