美術、文学、歴史、民俗宗教

摂田屋の地名の由来の説については、3. 歴史 にて、お話しています。

1. 美術
2. 文学
3. 歴史
4. 民俗宗教

1. 美術


絵画
摂田屋は、美術の観点からも多くの見せ場があります。例えば、
・秋山孝長岡ポスター美術館
   館内に入ると、三つの大きな壁面いっぱいに、現在と少し前の宮内、摂田屋の
風景が、現れます。 
   それは、まさに、皆さんの記憶の中にある、懐かしい四季の長岡です。
・川上四朗の童画

   川上四朗氏は、童画作家としてだけでなく、琳派的な昆虫・植物の装飾画にも    優れた作品を遺しています。 摂田屋に生まれた川上四朗の作品が、長岡高校    記念資料館にあります。生家近くの太田川の風景を描いた作品です。その長岡    中学時代の作品の製作ポイントを探しながら、太田川の土手を散策します。    2019年春現在、一周2.5キロに渡る土手上の遊歩道。ときおり、白い大きな鳥も飛ぶ、   長岡市内有数の、ゆったりした、気持ちのいい散歩道だと思っています。

・漢字の文化
摂田屋は、漢字の文化としても、いくつかの話題を持っています。
  ここでは、皆さんがあまりお気づきでない、摂田屋のデザイン的な書について、
  星野本店さん三階蔵のなかの扉の文字、吉之川さんの森清範師の書によるラベル、
  星六さんの中川一政画伯の書によるラベルについて、
「摂田屋の漢字文化」、及び
「漢字文化の背景」、 としてお話させていただけたら、と思っています。

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2. 文学

ここ摂田屋、宮内の文学と云えば、松岡譲であり、長岡は堀口大學が 少年時代から旧制長岡中学卒業までを過ごした地です。 松岡譲と堀口大學は、旧制長岡中学時代、同級生で、学業の優秀な友達だったそうです。
ここでは、長岡、 新潟の文学に関する話題をまとめました。 述べた人物以外にも、多くの文人がおりますが、私の関心事に関係 した人物のみ、ということで、選定に他意はありません。 ファンの人がいなくても、お許し下さい。

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3. 歴史

中世の摂田屋、村松の歴史
ここでは、摂田屋の地名の由来の説のひとつ、「接待屋」説について、お話します。
明治維新前後の歴史
戦国時代の歴史
・摂田屋城、上条城と鷺の巣城、栖吉城、御館の乱   

4. 民俗宗教

お稲荷さん
明治の中頃、宮城県岩沼の竹駒稲荷から勧請されました。人間生活の基礎である
衣食住を守護するとされ、五穀豊穣、地域安泰の神様とされています。
岩沼の竹駒稲荷の正月初詣で客は、新潟の弥彦神社とほぼ同数と言われて
いるように、東北地方屈指の大きな神社です。
神様の御使いのキツネは、中越地震で破損した修理痕が残っています。
小さなキツネも見えます。
サフラン酒の吉澤家の菩提寺は、ここ摂田屋の東1キロほどにある、鷺の巣の定正院
という古刹ですが、そちらにも、このキツネと同じ作者の手になると思われるキツネが、
お墓の傍の石塔の前に、石塔を守護するように鎮座しています。

辻地蔵
お地蔵さまは、すべての生き物を救う「地の守り神」だと信じられており、とりわけ
旅人や子供をお守りしています。 古くは、集落の入口や山道の分岐点に安置
されたものが多く、この辻地蔵も、長岡町にいた女の子が迷子で行方不明になって
しまった両親が、その子の無事を祈って、三国街道と、その脇道の山道の分岐点の
この地に建てたと言われています。 「右は江戸、左は山道」の文字が読めます。
越のむらさきさんは、お地蔵さん建立の25年後に創業です。
ここから4km南の、村松の村内の小さな屋根付きの「諸我の地蔵」は、今は村の小
路脇にポツンとひとりですが、昔は旧三国街道沿いに立っていたといわれています。

十二神社

ここから500メートルほど東、17号に向かう道沿いに、りっぱな社の十二神社 があります。 十二神社の十二は、山ノ神でありながら、薬師如来の眷属十二 神将、あるいは熊野十二所権現との関連も言われています。 上信越は東北地方の日本海側と ならび、「十二山ノ神」の信仰のたいへん盛んな地域であると言われており、 山古志では集落の鎮守ほか至るところで「十二山ノ神」が祀られています。 ここの十二神社は、もとは、このあたりの大地主でもある吉之川さんの敷地内に あった社を、地区の農地整理事業に伴い、地域の守り神として、 こちらに遷座されたものです。

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